デジタル教科書を推進したい文科省の思惑

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(以下、コラム記事を転載しています) ****************************************************************************

デジタル教科書推進作業部会が提示した中間まとめ案はかなり偏重した「推進」ありきの内容だ。このまま進むと特定地域の子どもたちの思考力を奪いかねない、「取り返しのつかない社会実験」を目指すものだ。

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文部科学省の中央教育審議会デジタル教科書推進ワーキンググループ(作業部会)は今月14日、中間まとめ案を発表した。

デジタル教科書は、紙の教科書と同じ内容をデジタル化したもので、学校教育法の改正により、2019年度から紙の「代替教材」と位置付けられている。

中間まとめ案では、①デジタル教科書を検定や採択、無償配布の対象となる「正式な教科書」に位置づける、②紙かデジタルかは各教育委員会などが選択する、③「一部が紙、一部がデジタルで作られたハイブリッドな形態」の教科書も認める、④導入時期としては次期学習指導要領が実施される30年度に合わせる、といったことが明記されている。

一方で、対象学年としては「児童生徒の発達段階に応じて検討することが重要だ」としており、認知処理能力が未発達とされる小学校の低学年についてはデジタル教科書の使用を控える必要があることを匂わせてもいる。

教員が関与せずにデジタルの使用を児童生徒に任せた場合には「授業への集中力や習熟度での格差が拡大する」と、リスクにも言及している。

各教育委による選択制を採用する理由としては、デジタル教科書の活用が十分に進んでいないことや、紙とデジタル双方のよさが指摘されていること、「スウェーデンがデジタル化の見直しを行うなど諸外国の立場も様々だ」とし、「教科書を全国一律に切り替えることは望ましくない」と結論づけている。

一見、様々な観点に配慮しバランスのよい結論を出したように見えるかも知れない。しかし冷静に読んでみると、「デジタル教科書を正式な教科書とする」という結論ありきで、その導入のやり方をマイルドにすることで反対意見を封じ込めようとする意図が明白だ。

そもそも現在の「デジタル教科書は補完的存在で、あくまで紙の教科書を主たる教材とする」という現行方式に何の問題があるというのか。この作業部会の提言は、あまりに唐突で合理的根拠に欠けると言わざるを得ない。

確かにデジタルで動画や音声を活用することには、アナログの文字だらけよりも認識しやすいし、やり方によっては例えば立体的観点で提示できるため理解しやすい場合も少なからずある、という利点が挙げられよう。しかしそれはデジタルを補完的教材として使うだけでも達成可能なメリットだ。つまり「デジタルだけ」という選択肢をあえて作る理由にはならないのだ。

ましてや「深い思考や記憶の定着には紙のほうが優れている」という研究報告が世の中で相次いでいることを文科省の役人が知らないはずはない。デジタルだけでは子どもの集中力が続かず、考えが深まらないという弊害が確認されたため、デジタル先進国であるスウェーデンが紙の教科書や手書きを重視する「脱デジタル」に転換したことも然りだ。

この「地域によってはデジタル偏重を許す」政策変更をもし強行すれば、これまでの「全国一律に一定水準の教育を受けられる」環境を国が保証してきた義務教育の大転換であり、地域による教育格差を生むことは確実だ。各教育委がよく考えないと、地域の子どもたちの思考能力が低下するリスクを軽視する愚かな決断を下さないとも限らない。

ではなぜ文科省はこうしたリスクを知っていながら、あえて暴挙に突き進もうとしているのか。ここからは推測の域を出ない話だ。

「デジタルだけ」という選択肢を敢えて作ることの唯一のメリットは、義務教育において無償となっている教科書(特に紙のもの)の給与コストを抑えることができる可能性があることだ(短期的にはむしろ制作に手間が掛かる分だけデジタルのほうがコスト増となるという指摘もある)。

そのコストを負担しているのは国であり、文科省が予算化している。では文科省はその予算を抑制したいがためにこんな無茶な横車を押そうとしているのか。否。中央官庁の役人の発想からして「予算は自らの権力の源」なので、それを減らすことに躍起になるはずがない。

では教科書を制作している会社たちが「教科書制作コストが色々と掛かっている割に低価過ぎて維持できない」と悲鳴を上げている(これは事実)ので、その見直しのために役所がひと肌脱ごうとしているのか。

これも否。中央官僚が民間業者の苦境を救ってあげるために動くはずがない。ただしデジタル教科書を推進する業界の鼻薬が一部の役人たちに強烈に効いている可能性はゼロではないかも知れない。

一番有力なのは組織文化説だ。過去の「ゆとり教育」でとんでもない学力低下を招いたように、(子供たちの犠牲のもとで)「新しい実験をやってみたい」誘惑に耐えられない組織体質なのだという指摘である。

冒頭に挙げた作業部会は、文科省が実施する意見公募(パブリックコメント)を経て、今秋までに最終まとめを策定する予定だ。そして25年度以降に法改正を進め、新たな教科書の検定を28年度に行うというスケジュールを想定しているとのことだ。

どこかで阻止しないと、ニッポンの宝である子どもたちの思考能力が危機にさらされることになる。