IRAというキーワードが今、再び世界を飛び交っています。米バイデン政権の目玉政策、インフレ抑制法=Inflation Reduction Actのことですね。
でも20世紀後半にはIrish Republican Army、すなわちアイルランド共和軍の略称として有名でした。このIRAは北アイルランド紛争において非妥協的な反英・反権力闘争を展開し、英国が非常に悩まされた存在でした。
その存在と名前をもじって、(当時戦略コンサル会社のアーサー・D・リトルに所属していた)私はセミナーで「悩ましきもの、その名はIRA」といった半分ふざけたタイトルで(正確なタイトル名は忘れましたが)講演したことがあります。
I=IT、R=R&D、A=広告の3つのことです。経営者の立場として「カネをかけなきゃいけないことは分かってはいても、ばかにならない金額で、しかもその投資金額の根拠を誰も正当化できない」ゆえに非常に悩ましい存在だと話したのです(実際にはどう投資評価するかの手法も少し話しましたが)。
さて、時代は21世紀に移って、再び「IRA」が世界を騒がせています。2022年8月に米国で成立した「インフレ抑制法」です。名はこんなですが、実態は「脱炭素支援法」、いやもっと有体に言えば(インフレ抑制と脱炭素に名を借りた)「米国への脱炭素産業吸引法」です。
税控除などの手段により、10年間で3690億ドル(約52兆円)を支援するのですから、相当なインパクトですよ。支援額全体の4割強がクリーン電力向けの税控除です。条件を満たせば、再生可能エネルギー電力の発電量に応じて1キロワット時あたり2.5セントを支援するものです。
太陽光パネルや風力発電用のタービン、蓄電池など、クリーン電力を支える機器の生産にも10年で300億ドル(約4兆2000億円)超の支援を想定します。消費者が購入する電気自動車(EV)、住宅に設置する再生エネ発電設備やヒートポンプなども支援の対象になります。
EVの税控除を受けるには、北米での最終組み立てや車載電池に使う重要鉱物の一定割合を、北米または米国と自由貿易協定を締結している国での抽出・処理を条件としているので、中国製EVの市場締め出しを狙っているとも指摘されており(実際、そういう政治的動機は小さくないでしょう)、中国は大いに反発しています。
欧州連合(EU)もまたIRA適用の条件に反発しており、条件見直しに向けて協議を続けていると同時に、産業の域外移転を阻止(つまり欧州企業が北米にばかり投資する事態を回避)するために、脱炭素関連技術を生産する域内の企業に対し、補助金引き上げを容認することを決めています。
では日本はどうかというと、日本発の技術を社会実装する動きを後押しすべく、官学民で150兆円を脱炭素技術の開発・普及に投じる「グリーントランスフォーメーション(GX)基本方針」を23年2月に閣議決定しています。この件については、ややもすると日常の忙しさの中で忘れそうになるかも知れませんが、意外と日本政府も本気だと私は見ています。
さて、もう少し妙な事実もあります。実は2022年のIRAの成立に伴って、米国のメディケア(高齢者向け医療保険)が、それまで禁じられていた製薬会社との直接値引き交渉ができるようになり、製薬会社はインフレ率以上の値上げをした場合、メディケアに割り戻し金を支払わなければならなくなったのです(なぜ本来は脱炭素の産業誘導を狙ったIRAがこうした面にまで拡大適用されるようになったのか、私には今一つピンと来ません)。
この結果、価格交渉に選ばれた薬価はほぼ確実に安く引き下げられます(製薬会社は政府の提示する価格に同意するか、メディケアのプログラムから撤退するしかない)。この交渉の結果による新価格導入は2026年からなので、大手製薬会社の業績への影響はまだ先ですが、開発面では既に影響が表面化しているそうです。
IRAは高分子のバイオ医薬品については承認から13年後まで自由価格設定を認めますが、低分子薬については承認から9年経過したらメディケアと価格交渉せよとしています。米国市場って製薬会社にとっては「金の卵を産むガチョウ」のような存在です。
このためグローバル大手製薬会社が低分子薬の開発に消極的になることは間違いありません。この影響はいずれ世界市場に及びます。つまり長期的には低分子薬が品薄になって薬価全般を押し上げ、途上国では新薬は入手困難になる恐れが高くなるでしょう。
いやぁ、IRAって相変わらず悩ましい存在であり続けるようです。