経営者は孤独なもの。そして新規事業を背負うリーダーというのは経営者の気概を持って事業メンバーを引っ張っていく必要があり、政治家的な振る舞いは不要だ。ましてや「民主的組織運営」を装うだけの優柔不断さは害毒にしかならない。
新規事業の推進責任者に抜擢された比較的経験の浅い人材が、気負い過ぎてなんでもかんでも独断専行で決めてしまうので、誰も付いてこなくて立往生してしまう、という話を時折聞く。だからといって、その逆に部下の意見をまんべんなく取り入れようとしたらどうなるか。
新規事業の企画段階ではよくあることだが、どれだけ様々な客観的データを集めて潜在客の意見を聴収したとしても、それ以上は客観的に頼れるものはなく、最後は主観的判断で決めなければいけない場面がある。例えば、売り出す製品のデザインであり、サービスの重要なユーザーインターフェースのあり方である。
また新規事業の運営の初期段階でよくあるのは、当初想定通りにいかないことが判明し、早急に修正しなければいけないのだが、どうすればいいのか誰にも正解が分からない場面だ。例えば、思ったように客数が伸びないので価格付けを変えるべきなのか、販促方法を追加・変更すべきなのか、それともチャネルそのものを考え直すべきなのか…。
いわば、暗くなりかけた山道で分かれ道に立って、右か左のいずれを選ぶべきかを決めなければいけない状態である。しかも懐中電灯もないため、迷ってばかりいると途中で暗闇に閉ざされてしまい、立往生してしまうことが確実という事態だ。
事業の主要メンバーは既に「自分はこう思う」という意見とその根拠は口にした。それぞれの立場と限られた経験に拠った意見なので、圧倒的な説得力は誰にもない。神ならぬ身でありながら事業の将来を左右する判断をするのだから、あとは最も幅広い情報に触れているはずの責任者に判断を委ねようという気に周囲はなっている。
この段になっても、部下に対し「どう思う?」と再び意見を繰り返させ、一向に判断できないリーダーの姿を目にしたら皆、どうなるだろう。いわゆる「小田原評定」の状態になってしまうのだ。
もしくはそれぞれの意見をつなぎ合わせただけの中途半端な折衷案でお茶を濁そうとしたらどうだろう。先ほどの例でいえば分かれ道の中間に突っ込むようなもので、確実に遭難してしまうだろう。
ある程度行き先が見えている既存事業においてさえ、意思決定のペンディングは緊張感と責任感に欠ける組織運営をもたらしかねない。それでも既存事業の場合、日常的な運営に迷うことが少ない分、しばらく時間稼ぎをしていてもパニックになることはない。秀吉の大軍が攻めてくるわけではない。
しかし時間との過酷な競争を余儀なくされる新規事業においては、こうした立ち止まっている時間が長いことは、それだけ競争者に先行を許すリスクを高めることを意味する。
経験値が少ないことにコンプレックスを持つ若きリーダーはさらに民主主義的なふるまいに及び、非常に危険な状況を招きかねない。この種のリーダーは怖いことに、一種の多数決で決めようとするかも知れない。つまり多数意見に従おうとするのだ。実は小生、そういう場面を目にしたことが何度かある(もちろん止めたが)。
多数派に従うことが正しいという保証などない。むしろ責任が曖昧になるだけで、禄でもない結果になりかねない。仮に結果オーライであっても、その組織にとって悪い前例を作ってしまう。
なぜこうした妙に「民主主義」的なふるまいに及ぶ若きリーダーたちが決して少なくないのか。実はいくつかの勉強会で、こうした経験を持つ人たちに(遠まわしではあるが)尋ねたことが何度かある。驚いたことに、彼らは別段おかしなことをしたとは思っていないのだ。それで組織が滑らかに回っていくならそのほうがよいではないか、という感覚なのだ。
どうやら「民主主義」的なふるまいというのが大人の正しい態度だと学校教育かクラブ活動で刷り込まれているのではないかというのが小生の仮説である。そして事業主導の経験がまだ少ない段階では、この過去の経験値に基づく方針でメンバーの信頼を勝ち取ろうとするのではないか。
さらに一部の先進的な組織運営例として、「エンパワーメント」などの言葉と共に「民主主義的」なやり方が日本にも紹介されてきた経緯もある。自分たちは頭ごなしに命令する「昭和オヤジ」たちとは違ってスマートなやり方ができるのだ、と考えたいのだろう。
しかし「民主主義的」運営では決して強い組織にはならないし、ましてやスピード重視の新規事業では致命的ですらある。やがて彼らも、この運営方針が企業経営、とりわけ新規事業の経営には向かないことを体験的に学習するのだ。
小生がよく存じ上げている、大企業で過去に新規事業をいくつか任され(その一部には手痛い失敗があり)、今や大きな事業を任されるようになった40代以上の人たちは皆、優柔不断でないのはもちろん、民主主義的態度を装うことなど決してない。