規制と闘い続ける男

ビジネスモデル

7月4日(木)にBS NHKで放送された島耕作のアジア立志伝は、「第3話 規制緩和の革命児~トニー・フェルナンデス」。エアアジアグループCEOであり、航空業界の規制や権益に真っ向勝負を仕掛けてきた経営者である。エアアジアの機体にペイントされたキャッチフレーズは”Now Everyone Can Fly”。マレーシアでエアアジアを設立し、12年の間に年間乗客数4400万人を数える航空会社に成長させた。しかし彼がエアアジアとともに歩んだ道程は規制との格闘、苦労の連続だった。

(ライセンス許可を依頼したら、マハティール首相にサジェストされたので)破綻した航空会社を買い取って航空業界に参入したのが、2001年9月8日。その3日後、9.11テロ事件が発生。航空業界は大打撃を受けた。人々は飛行機での移動に恐怖を感じ、利用者は激減。閉鎖される空港まで現れた。パートナーが電話でこう言った。「こんな時にどうやって航空会社を始めるんだ!」トニーは返した。「なぜ軌道修正しなければならないんだ。我々はアメリカに飛行機を飛ばすわけではない。人々がブルネイやコタキナバルまで飛行機で行きたいことに変わりはないじゃないか。我々は続けるんだ」。パートナー達は彼を信じた。

その後、多くの航空会社は赤字を抱え、各社のスタッフは次々と解雇された。だがトニーにとっては「人材の宝庫」が解放されたことを意味した。引き抜きの苦労もせず、多くの優秀な人材を雇うことができた。次々と路線を増設。徹底したコストカットによって実現した低価格な運賃が受けて急成長。1年後、買い取った航空会社が抱えていた11億円もの借金はゼロになっていた。

エアアジアでは低価格運賃を実現するため、コストカットを徹底している。それは本家の米サウスウェスト航空と同様だ。チケット予約はネットで行い、チケットは乗客が自らプリントアウト。乗客が飛行機に乗り込む際には搭乗橋はなく、飛行場を歩く。空港での駐機時間を25分に短縮して空港使用料を削減すると同時に、航空機の回転率を上げる。また、機内ではコーヒーも毛布も有料(一般的な航空会社ではその料金がチケット代に含まれている)。「簡素化はしているがサービス自体の質が低いわけじゃない。ローコストというのは低品質なのではなく、効率のよいサービスを提供するということ、乗客にサービスを受ける選択肢を与えるということなんだ」(トニー)。

トニーの前に立ちふさがった規制の壁の象徴がシンガポールへの乗り入れだ。シンガポールの空港は、東南アジアのハブ空港として中心的な存在だが、いくら陳情をしても、クアラルンプール(マレーシア)からシンガポールへの直行便の許可が降りない。(シンガポールで合弁会社を作る申請は)シンガポール政府に3度も却下された。次の手は、クアラルンプールからシンガポール国境に近いセナイ空港まで国内便を飛ばし、乗客にはシャトルバスに乗り換えてもらい、国境は陸路で通過するという苦肉の策。これも却下されたが、トニーは強行突破することにした。2004年、実際に乗客をバスに乗せて国境を越えようとしたが、シンガポール陸運局に止められ、乗客は全員降ろされた。そしてバスは没収された。凄まじい闘いである。

ついにトニーは公然とシンガポール政府を批判することに決め、シンガポールの新聞に広告を載せた。「チューインガムは禁止。横断歩道以外の道の横断は禁止。エアアジアのシャトルバスの乗り入れは禁止。でも低価格で飛行機に乗るのは合法です」と。厳しい法律が多いシンガポール政府がチューインガムの国内への持ち込みすら禁止していることにかけた辛口の広告だ。この新聞広告はシンガポールの人々から喝采を浴びた。2007年、エアアジアはついにシンガポール就航を果たした。低価格にこだわり続けたエアアジアは、現在では21の国と地域、85都市に193もの路線を持つに至り、世界中の人々に利用されている。

トニーは、新たな「規制」を打ち破る挑戦を始めている。低価格により「誰でも利用できる」保険や教育を始めようとしている。彼は言う。「人生は困難なものだ。近道なんてない。自身の運命は自分の力でコントロールするんだ。…政府は我々のために何かをしてくれるわけじゃない。運命は自分で切り拓いていくものなんだ」。痛快な男の人生である。