終末期鎮静は次善の策として決然と執るべき

社会制度、インフラ、社会ライフ

終末期の治療および見取りというものについて時折考える。決して今、肉親や近い友人が死にかけているということではないが、小生は子どもの頃に親友を脳腫瘍で亡くし、祖父が数年間寝たきりになって死亡してから、死はそんなに縁遠いものではないと意識できている。

1月19日(火)にクローズアップ現代で放送されていた「“最期のとき”をどう決める~“終末期鎮静”めぐる葛藤~」を観たときも、むしろ死を異常に先延ばしする現代人の多数派の感覚のほうに違和感を覚えるほどである。

番組の冒頭で、激しい痛みを訴える末期がんの男性に対し鎮静剤で眠らせ、3日後に静かに息を引き取った様子が伝えられた。こうした“終末期鎮静”が今、在宅で広がっていること、残された家族や処置をする医師の中には葛藤を抱える人もいることが語られていた。

しかしこの“終末期鎮静”を施した医師が語るように、これは最後の切り札だと思う。本人も苦しみぬかなければならないのと同時に、ご家族も最後の数日苦しんだことは、相当後になっても残るような、辛かった思い出になる。それに対し、痛みを感じないように本人を眠らせてあげるのは「次善の策」だと思う。

積極的安楽死は、日本では違法行為だ。医師が患者に死に至る薬を投与して、患者の命を終わらせるというものだ。一方で“終末期鎮静”は鎮静薬を投与して、患者を眠らせて苦痛を取り除くといったもので、多くの医療従事者は区別して考えている。

とはいえ、薬を投与したあと、患者が命を終えるという側面を見ると、両者はよく似ており、医療従事者の中には「積極的安楽死とあまり変わらないと感じることがある」という回答が2割もあったそうだ。

番組では、残された家族が悩む例も挙げていた。子宮けいがんの末期で治る見込みはないと言われ、自宅で療養することになった39歳の姉が終末期鎮静を強く希望していた。それに反対し続けていたが、最終的に折れてその選択に同意した妹は、その後もその選択がほんとうに正しかったのかを自問し続けているという。

しかしそれは家族のエゴではないのか。本人が苦しみ続け、眠らせてくれと懇願しているのに、自分たちのために少しでも長く生きて、苦しみ続けてくれと考えることは。

もちろん、最期の最期にうなずいたり、いろんな意思表示ができたり、にこっと笑ったりしてから亡くなると、遺族も「よかった」と思うだろう。それが理想的な死に方だ。完全に寝てしまうと、意思疎通のないままで死ぬわけなので、あとから悔いが残るというケースがあるのだ。

しかし終末期鎮静では理想的な死に方にならないからといって、苦痛の緩和の最後の手段を執らずに苦しむままにしておくとしたら、そのほうがよほど残酷な「生殺し」だろう。しかも単に死を先延ばしするだけなのである。

理想的でなくとも次善の策を、医師は勇気をもって薦め、執るべきだ。そして患者家族が公開しないよう、納得できるように、腹を割って対話すべきだ。