空の旅を安全にした日本人、藤田哲也という気象学者

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連休前後が妙に忙しかったため、その前後に録り溜めした番組録画を今、合間の時間を使って追い掛けて観ている。その一つ、5月2日 (月)に放送された「ブレイブ 勇敢なる者」を観た。タイトルは「藤田哲也 ~Mr.トルネード 気象学で世界を救った男~」。芯の通った、実に格好いい科学者だと思った。

それが竜巻の強さを風速と被害状況から分類する単位、フジタ(F)・スケールという世界的基準を考案した男、日本人気象学者・藤田哲也(ふじたてつや)だ。

1920年10月23日、福岡県北九州市小倉で生まれ。父親と母親を相次いで亡くし大学進学を諦めていたが、中学の校長が明治専門学校(現九州工業大学)に藤田の進学を願い出てくれ、機械科に入る(その時身に着けた設計の知識が後に竜巻発生装置などの開発へと結びつく。人生に無意味なものはない)。

入学したものの苦しいままの家計を支えるため、学業のかたわら地質学の教授の研究助手につく。地質調査に同行した藤田はその教授の、なんでも鵜呑みにせず疑い、徹底的な観察を通して物事の本質に迫る姿に感銘を受ける。「驚いたのは、教授は地図を見ながら歩くのではなく、地図の誤りを訂正しながら地質調査をしていることだった」(藤田哲也の回顧録)。

1975年12月、藤田は航空機事故(イースタン66便墜落)の謎と向き合っていた。当日の気象データ、無線通信を丹念に分析した藤田はある光景を思い出していた。1974年4月、当時史上最大と言われた竜巻が発生。その被害状況を上空から撮影した写真の中に妙なものが含まれていた。木が何本も吹き倒され、しかも風が回転した形跡がないものだった。

その光景には見覚えがあった。それは原爆投下から10日余り、母校が派遣した長崎への原爆調査に参加して、3日間焼け野原を歩き、現場に残るわずかな痕跡から原爆の衝撃波の実態を明らかにした時だ。

雷雲から吹き下ろし爆風のように広がる衝撃波。そんな気象現象が局地的に発生したのではないかという仮説を藤田は考えた。そして、これを「ダウンバースト」と名付けたのだ。向かい風にあい機体が持ち上げられる、強烈な下降気流が機体を地面へと押さえつける、その直後に追い風が揚力を奪い急降下、というプロセスだ。

藤田はイースタン航空66便の墜落原因を「ダウンバースト」によるものと発表。しかし、その時点で賛同する気象学者はほとんどいなかった。また藤田は小さなダウンバーストを「マイクロバースト」と呼んだ。

マイクロバーストの存在を証明するため、藤田は大規模な観測計画を実行することにした。アメリカ国立大気研究所のロバート・セラフィン博士は最新の観測レーダーを提供。1978年5月19日、イリノイ州シカゴ郊外にドップラーレーダーを設置し「NIMROD観測計画」が開始された。

観測が始まって11日目の夜、すぐ近くに雷雲が現れる。すると突如、秒速31mという台風並みの突風が出現。世界で初めてマイクロバーストを観測した瞬間だ。しかし、これで論争に終止符が打たれたわけではなかった。レーダーの観測網が広すぎて現象の詳細まで捉えられなかったからだ。

4年後、コロラド州デンバーで再び大規模な観測が行われる。「JAWS観測計画」だ。今度はレーダーの観測網を狭くして詳細な観測データを得ることにしていた。しかし大きな嵐が来ているのに1台のレーダーが故障。すると藤田哲也はレーダーを垂直方向にすることを提案。藤田哲也のひらめきがついに決定的な証拠を引き寄せた。その時レーダーがとらえたのはマイクロバーストが上空から吹き下ろす瞬間だった。この調査で観測されたマイクロバーストの数は200近くにものぼった。マイクロバーストが頻繁に発生している事実は多くの研究者に衝撃を与えた。仮説は証明されたのだ。

そんな中、1982年7月9日にパンアメリカン航空759便が離陸直後に墜落。原因はマイクロバーストによるものと結論づけられた。さらに1985年8月2日、デルタ航空191便がマイクロバーストにより墜落、135人が死亡した。突然発生するマイクロバーストの恐ろしさを藤田哲也は訴え続けた。パイロットたちは藤田哲也の説を支持し、早急な対策を求めた。

アメリカ政府の航空機事故調査委員会も危機感をつのらせていた。航空業界はパイロットへの訓練を強化。航空機には風の急変を知らせる警報装置が搭載された。またマイクロバーストの発生を数分前に探知するシステム「ターミナル・ドップラーレーダーシステム」が開発され、世界中の主要な空港に導入された。

これらのおかげで風の急変による事故がほぼ発生しない、今の状況がもたらされたのだ。1989年、藤田哲也は気象界のノーベル賞と呼ばれるフランス国立航空宇宙アカデミー金メダルを受賞した。日本人として誇らしい人物である。